松任谷 由実(まつとうや ゆみ、本名も同じ、1954年1月19日 - )は、日本のシンガーソングライター、作曲家、作詞家。(松任谷由美は誤字)。荒井由実(あらい ゆみ)の名で活動していたが、1976年の結婚とともにアーティスト名も改姓。愛称はユーミン (Yuming)。ペンネームは呉田軽穂(くれた かるほ)。匿名性を持って曲を提供する際に用いている。往年の美人映画女優である「グレタ・ガルボ」をもじったものである。東京都 八王子市出身。立教女学院高等学校、多摩美術大学美術学部絵画学科油絵専攻卒業。血液型はO型。星座は山羊座。
ユーミンという愛称は、13歳のころに初恋相手の中国人(ユーミンが中学生当時追っかけをしていた『ザ・フィンガーズ』のC・U・チェン。 1982年刊行の自叙伝『ルージュの伝言』より)につけてもらった(中国には Yuming というポピュラーな名前がある。イオ・ミン・ペイ(貝聿銘)など)。
夫はアレンジャー、作曲家、音楽プロデューサー、自動車評論家の松任谷正隆。ラジオでは正隆について語る時は「うちの旦那」「まるまつ」「おとうさん」と呼んでいる。
荒井由実時代
1954年1月19日、東京都八王子市の創業95年(2007年現在)の老舗呉服店(荒井呉服店)に、二男二女の第三子(二女)として生まれる。
中学時代に 港区・麻布台(飯倉)のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしていた。 当時、同レストランは文化人が出入りしていた。後に同レストランに集まったアーティストから、アルファレコードが生まれ、デビューのきっかけを作った。
14歳のとき、プロとしての初めての仕事でスタジオでのピアノ演奏をした。以後、スタジオで演奏をしながらオリジナルの曲を書き、1971年に17歳で作曲家としてデビュー。 作品名は加橋かつみ(元ザ・タイガース)に提供した『愛は突然に…』であった。
1972年4月に多摩美術大学に入学。初めは作曲家志望だったが、アルファレコードを設立した村井邦彦の勧めで、同年7月5日にかまやつひろしがプロデュースしたシングル『返事はいらない』で荒井由実としてデビュー。同シングルはほとんど売れず、後に幻のデビューシングルと呼ばれるようになる。1973年11月にファーストアルバム『ひこうき雲』を発売、TBSラジオの深夜放送番組 「パックインミュージック」金曜日第2部を担当していたパーソナリティの林美雄の絶大な支持を受けて知名度が上がり、翌1974年より本格的にステージ活動を開始する。
1974年、長崎県立五島高等学校奈留分校(現・長崎県立奈留高等学校)の女子生徒がラジオの深夜番組『オールナイトニッポン』の「あなただけのイメージソングを作ります」コーナーあてに、「校歌を作ってほしい」と手紙を出し、当初は加藤和彦が担当したが、郵便事故によりテープは届かなかった。その1ヵ月後ユーミンが代わりに担当することになった。それが『瞳を閉じて』(アルバム『MISSLIM』収録)となって同校に贈られた。 校歌にはならなかったものの愛唱歌として卒業式などで歌い継がれている。そのエピソードは1976年4月12日放送のNHK総合テレビのドキュメンタリー番組「新日本紀行」でも紹介された(「歌が生まれてそして〜長崎県奈留島〜」)。この曲が高校の音楽の教科書に載ることを記念し、1988年8月14日には卒業生など約600人の寄付によって同校敷地内に歌碑が建てられ、その除幕式には本人も参加した。歌碑には事前に頼まれていた原稿用紙に書いた文字が金文字で彫られていた。
1975年10月発売のシングル『あの日にかえりたい』(TBSドラマ「家庭の秘密」主題歌)が61.5万枚を売り上げ、初のオリコンチャート1位を獲得(それ以前にもバンバンへの提供曲の『「いちご白書」をもう一度』が1位を獲得している)、1976年の年間シングル売り上げチャート10位のヒットとなり、第一次ブームを迎える。さらにこの年には、年間アルバム売り上げチャートTOP10に、旧譜を含む3枚のアルバムがランクインするという快挙を成し遂げた。
彼女が活動を始めた時期は、自作自演を行う人の中からアメリカやイギリスの1960年代の音楽に深く影響を受けた、フォーク(後にニューミュージック)と呼ばれるジャンルの音楽を志向する人々が増えてきた頃にあたり、彼女は女性としてはその草分け的存在の一人であると言える。
松任谷由実時代
1975年12月にアレンジャーの松任谷正隆と婚約、1976年11月29日に横浜山手教会にて結婚、松任谷由実となる。本人には引退する考えもあったようだが、結婚後も途切れず音楽活動を続行。1978年から1983年はオリジナルアルバムを毎年2枚リリースするなど、ハイペースで曲を製作。『DESTINY』や『恋人がサンタクロース』はこの頃作られた。また、リゾート地でのコンサートのスタイルをこの時期に確立。この分野においても草分け的存在の一人である。
1981年6月のシングル『守ってあげたい』(薬師丸ひろ子主演映画「ねらわれた学園」の主題歌)が 69.5万枚・1981年年間シングル売り上げチャート10位のヒットとなり、第二次ブームが到来。その年のアルバム『昨晩お会いしましょう』(『守ってあげたい』など収録)以降のオリジナルアルバムは17枚連続でオリコン1位を獲得、1988年のアルバム『Delight Slight Light KISS』以降は8枚連続のミリオンセラーを連発。
1988年に「松任谷由実のオールナイトニッポン」スタート。
彼女が始めた“見せる”ステージは、1978年自転車に乗って登場する『大衆的時事歌劇』に始まり、本物の象が出た『OLIVE』・マジックを取り入れた『MAGICAL PUMPLIN』・エレベータを設置した『BROWON'S HOTEL』・噴水ショー『SURF & SNOW』・30メートルの竜に乗った『水の中のASIAへ』など年々エスカレート。億単位の金をかけ、内外の最新技術を積極的に取り入れた、コンサートの枠を超えた新たな一大エンターテイメントになっていった。当時のインタビューでも、「レコードで儲けた分、コンサートで夢と一緒にファンの方にお返しするのが役目」と語っていた。「若者のカリスマ」、「恋愛の教祖」などと呼ばれ、1980年代はまさにユーミンの時代だった。「中産階級の手に届く夢」を歌って時代の波に乗ったユーミンだったが、1990年代に入ると精神世界や民族的な音楽に着目。『真夏の夜の夢』、『春よ、来い』などの傑作を生み出す。
1996年、以前の芸名荒井由実の名で活動を行う。セルフカバーシングル『まちぶせ』を発売。また、荒井由実時代の仲間のミュージシャンを集めて、「Yumi Arai The Concert with old Friends」を開催した。このライブアルバム発売に伴い、年末リリースのアルバムが数ヶ月遅れた。これ以降、日本の恒例行事とまで呼ばれたサイクル(冬のアルバム発売〜夏までツアー)が若干緩やかになったが、「カリスマはもういい。これからは好きな音楽をやる」と宣言した彼女は、以後も精力的に作品を制作。ステージはますます大掛かりになり、1999年・2003年にはロシアの サーカスチームとコラボレートした制作費50億円のコンサート「シャングリラ」を開催。前代未聞の興行として話題になる。2007年にはシリーズ最後を飾る「シャングリラIII」を開催。