イエロー・マジック・オーケストラ(Yellow Magic Orchestra)は、1978年に結成された日本の音楽グループ。略して「YMO」(ワイ・エム・オー)と称する。
YMOはテクノの歴史の中でも初期のグループであり(当時は具体的に「テクノ」というジャンルはなく、それは後に定着したものである)、また彼らの音楽にはロックの要素もあったことから、現代のようなテクノにカテゴライズできるとは簡単には言い切れない。しかしここでは、日本のテクノ最初期のグループとして紹介する。
メンバー
- 細野晴臣(ベース)
- エイプリル・フール、はっぴいえんど、ティン・パン・アレーを経て、YMOを結成。YMOのリーダー・プロデューサーであり、シンセサイザーとコンピュータを用いるYMOの音楽スタイルを打ち出した。 宗教や民俗学など神秘主義的な趣味があり、それらもYMOに影響を与えている。ライブではほぼベーシストに徹し、特筆すべきはシンセサイザーをベース代わりに演奏していたことである(ただし、曲によってはエレクトリックベースを使用している部分もある)。YMO散開後は特にアンビエント、エレクトロニカ等のジャンルを取り入れている。
- 高橋幸宏(ドラム・ヴォーカル)
- サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスを経てYMOに参加。YMOをきっかけに機械のビートと同期してドラムを演奏した最初期のドラマーである。また、ライヴではドラムを叩きながら自らヴォーカルをとるという異色なスタイルで演奏していた。ファッションデザインの技能を生かしてYMOではステージ衣装のデザインを手掛けた。YMO散開後はソロ活動とともに、様々なミュージシャンとのコラボレーションや プロデュース業を展開している。
- 坂本龍一(キーボード)
- YMOで唯一、音大出身のミュージシャン。スタジオミュージシャンとして活動した後、YMOに参加。YMOでは松武秀樹とともにレコーディングにおいて楽曲を構築する重要な役割を果たし、またライヴでは楽曲のアレンジを一手に引き受けた。YMO散開後は映画音楽で成功するなどソロ活動を展開している。
担当パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライブ、TV番組では上記以外のパートを担当することもあった。 YMOは元々はコンセプトバンドとして構想されたものであり、細野はメンバーの人員構成は流動的にする考えを持っていたが、ライブなどでサポートメンバーを迎えることはあってもYMOのメンバー自体は最初から最後までこの三人であった。
概要
イエロー・マジック・オーケストラという名称は、細野が70年代後半あたりに提唱していたコンセプトである「イエローマジック」から来ている。これは白魔術(善や白人などの象徴。特に白人音楽)でも黒魔術(悪や黒人などの象徴。主に黒人音楽)のどちらでもない黄色人種独自の音楽を作り上げるとして、魔術の色を人種の色にかけて提唱したのが「黄色魔術」(イエローマジック)である。細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン・パン・アレーの曲「イエローマジックカーニヴァル」、細野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド」が挙げられる。また坂本のアルバム『千のナイフ』 のライナーノーツの細野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。
1980年代初頭に巻き起こったテクノ/ニューウェーブのムーブメントの中心にいたグループの一つであり、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で、1978年に結成されてから1983年に「散開」(解散)するまでの5年間で日本を席巻した。活動期間中には米国等でのレコードリリース、及びコンサートツアーも行っている。英語圏で著名な日本人ミュージシャンでもある。1993年に一時的に「再生」(再結成)しており、また2007年にも再び再結成している。
当時、シンセサイザーやコンピュータを駆使した音楽としては既にドイツのクラフトワークが有名であったが、それらの技術を用いた音楽はまだ珍しい時代であった。そんな中で現れたYMOの音楽は、日本において当時の若い世代を中心に熱狂的に受け入れられた。そのため、YMO結成とクラフトワークの「The Man Machine」(邦題:「人間解体」)発売、同じくシンセサイザーを多用したディーヴォの「Q: Are We Not Men? A: We Are Devo!」(邦題:「頽廃的美学論」)が発売された1978年を「テクノ元年」と呼ぶ者も存在する。また英米・英語圏の音楽界に対しても少なからぬ音楽的影響力を残しており、例えば「U・T」(アルバム『BGM』収録)は トランス・テクノ、「ライオット・イン・ラゴス」(厳密には坂本のソロ『B-2ユニット』の曲だが、'80年のYMOのライブで好んで演奏された)はヒップホップのそれぞれ始祖であると、後に英米で評されている。
YMOはそのファッションも特徴的であった。特に、初期のアルバムジャケットやライブでメンバーが着用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、明治時代のスキー服をイメージした衣装であったが、その容貌が中華人民共和国の人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった。メンバーが人民帽を着用していたのも一因かと思われる)、そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、当時の若者の間でも流行した「テクノカット」と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげ無し)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認知されており、彼らのトレードマークであったと言える。
1990年代以降に活躍する日本人ミュージシャンの中に、YMOの音楽に影響を受けたと自称するミュージシャンが数多く現れた。彼らは「YMOチルドレン」と呼ばれることがある。その代表的アーティストは槇原敬之、宮沢和史(THE BOOM)、高野寛、テイ・トウワ、電気グルーヴ(石野卓球)など。
「YMO」というジャンル
その音楽をカテゴライズするのは非常に困難ではあるが、YMOは一般に「テクノ」のグループとして認識されている。しかしライヴなどを見てみると、現代のテクノとは大きく違い、YMOの演奏はギター・ベース・ドラム・キーボードのロックバンド形式である(特に初期のライヴでは、機械による自動演奏を取り入れつつも、機材的な問題から生演奏に頼る部分が大きかった)。YMOは結成当時、レコード会社側がフュージョンバンドとして売り出す予定であったが、初期の生演奏を多用したスタイルはそれが一因なのかもしれない。
当時のテクノ/ニューウェーブのムーブメントを振り返る際、YMOはクラフトワーク、ディーヴォとともに重要なグループとして語られることが多い。比較してみると、クラフトワークの音楽はドイツ古典クラシック音楽の流れの上に乗りつつ音数を極限まで減らした鋭いサウンドである。一方のディーヴォはシンセサイザーのサウンドを取り入れたロックバンドである。
そしてYMOは、その時期によってその音楽スタイルは大きく異なり、一言で説明することは難しい。初期はフュージョン、ダンスミュージック等様々な要素がみられるが、基本的なスタイルとしてはロック色が強い。中期には反復演奏やサンプリング等、音楽性やテクノロジーの可能性を追求した。後期はこれらのノウハウをポップスへと昇華させている。
また、伝統的な音楽理論を用いなくとも成立する現代のテクノとYMOの音楽が違う点は、ロックバンド出身の細野と高橋、クラシックの英才教育を受けた坂本と、楽器の演奏や音楽理論に精通したメンバーが楽曲を作り上げていたことだ。現代のテクノにも通ずる実験的な試みをしつつも、楽曲の多くはメロディーやコードワークが重視されている。
積極的な電子技術の採用
- YMOはシンセサイザーのサウンド、そして電子機器による自動演奏を大々的に音楽に取り入れた先駆者的グループである。また、それまでミュージシャンの手弾きによる生演奏が常識だったライヴにおいて自動演奏を取り入れた点でも革新的だった。
- YMO結成当時、クリック音に合わせて演奏できるミュージシャンは数少ない時代だった。細野、坂本、高橋はクリックとの同期に違和感を持たない演奏家であったうえに、音楽・音色に対する探求心も強く、新たな技術を積極的に受け入れる傾向が強かった。そのためローランドから、当時まだ試作段階であったにもかかわらず、ヴォコーダ「VP-330」を使ってほしいと依頼されたことがあった。
- シンセサイザーと自動演奏は切っても切れない関係にあり、これらはプログラマの松武秀樹の存在が大きい。レコーディングやライヴでの音楽データのシーケンサへの打ち込み、自動演奏は松武が一手に引き受けていた。また、日本初のサンプラーの開発では松武が発注元であり、松武による功績が非常に大きい。